蝉草子(日本編)
1996年3月
はじめに
「趣味は蝉聴きです。」
この言葉を聞くと大抵の人は怪訝な顔をする。それもそうである。曲がりなりにも某社の課長を務める齢三十八の男の趣味としては至って妙である。いいや、一般的に見てもかなり妙であるかもしれない。
何故蝉聴きなのか?
この疑問は未だに自分自身の中でも解けない謎として残っている。おそらくは、幼い頃の昆虫図鑑に記された、自宅の近辺にはいない蝉達、例えばハルゼミの鳴き声(カラカラカラカラミーンミーンと表現されていたように思う)を見て、一度本当の声を聴いてみたいと、幼心に想いを馳せたのが原点であるような気がする。そして大人になり、幼い頃夢見た蝉達の歌声を各所に尋ねては、至福の悦びに浸れるこの高尚?な趣味に自分が携われたことを、誇りに思っている今日この頃である。
そんな蝉聴きを通じた私と蝉との付き合いの中の、幾つかの出来事をここにご紹介しようと思い、筆を執った次第である。その中でも今回は私にとって、特に思い出深いヒメハルゼミの話を中心に纏めたので、拙いながらも書かれたことが少しでも皆様のご参考になれば幸甚である。
1.
ヒメハルゼミとの出会い
幼い頃私のバイブルであった昆虫図鑑の中に、近所(東京都目黒区)で良く捕まえることのできる、アブラゼミやニイニイゼミやツクツクボウシと並んで、私の知らない蝉達がいた。それはハルゼミであり、クマゼミであり、エゾゼミであり、エゾハルゼミであった。しかし、それらの私がまだ見ぬ蝉達の中でも、一際目を引く蝉がいた。
ヒメハルゼミ
それが彼の名前であった。何故気になったかと言えば、その姿や鳴き声よりも、彼が「国の天然記念物」であったことであり、そして「天然記念物」であるが故に、図鑑の他の蝉達とは少し離れた場所に、特別扱いで記載されていた所為であろう。この時から、ヒメハルゼミに対する一種の憧れと、「天然記念物」と言う言葉から連想される、聖なる物に対する畏敬の念が私の中に沸き起こったのである。そしていつの日にかきっとその姿を見、声を聴いてみたいと心に誓ったのである。
2.
姫春参りの旅
長い間実現できなかったその夢が実現される時が来たのは、私が大学に入り、運転免許を取得した時であった。その頃には既に、ヒメハルゼミが天然記念物である理由は北限のためであり、決してその地域にしか発生していないと言う理由では無いことを知り、少しがっかりしたのを覚えている。しかし、その反面、伊豆半島南部や房総半島南部には各所に分布しており、また、東京都にも発生地が有るのを知り、驚くと同時にその発生地巡りに意欲が沸いたのも事実である。
そして私の姫春参りが始まった。茨城県は片庭楞厳寺・八幡神社・菖蒲沢・小山田。千葉県は茂原市八幡神社(ひめはるの里)・高滝神社・その他南房総のゴルフ場近辺。東京都は八王子市裏高尾神明神社・別所蓮生寺、日枝神社・南大沢都立大学裏。神奈川県は早雲寺。静岡県は伊東市宇佐美比波領天神社及びその周辺・下賀茂・下田近辺。新潟県は能生町白山神社。
このように、車で行くことのできる関東及び関東周辺の発生地は、ほぼ廻り尽くしたと言える。そして幸運な事に私が出向くと、あの気難しい蝉が必ずと言っていい程、歓待するが如く鳴いて迎えてくれるのである。また、ついこの間は蝉の会の会合で入手した平塚市博物館資料の「セミのぬけがら調べ」に「神奈川県箱根の須雲川駒形神社」にも発生していたことを知り、季節は既に過ぎていたが早速現場検証してきた次第である。しかしながら、残念なことにそこは既に絶滅しているとのことであり、確かにヒメハルゼミの発生地を見続けて約20年の私の目から見ても、発生するような鬱蒼とした森が失われており、今なお存在する可能性は非常に薄いと思われた。やはり、関東地方では局所的にしか見られないこの蝉が、次第に失われて行くのを知るのは非常に寂しい限りである。
3.
ヒメハルゼミとの縁
私とヒメハルゼミとはなかなか縁が深いようである。それは、次の出来事から伺い知ることができる。
まず、私はヒメハルゼミの新棲息地の発見者なのである。場所は静岡県伊東市宇佐美のとある神社であった。何故発見できたかと言うと、旅行に行った時にたまたま神社(比波領天神社)で涼んでいたところ偶然鳴き出したために発見できたのである。その日、散歩を楽しんでると、ふと神社のこんもりとした木々(ホルトの木)が目に止まり、何故かヒメハルゼミがいるような予感がして足を向け、半信半疑ながら待っていたところ、その大(?)発見に繋がった訳である。蛇足ながらその神社でその時同時(8月初頭)に確認できた蝉は、ニイニイゼミ・アブラゼミ・ヒグラシ・ミンミンゼミ・クマゼミ・ツクツクボウシそしてヒメハルゼミの7種にも上がり、全国でも非常に貴重な場所では無いかと思われる。
その後、その場所に頻繁に通い観察したところ、この宇佐美周辺には発生地が他にもあり、一度などはマンションの前の潅木で鳴き声を聴き、腰を抜かしたケースもある。やはり、ヒメハルゼミは神社仏閣を囲む、昼なお暗い神聖な雰囲気の漂う森の中で、存在して価値があるものであり、あまり住宅街等では鳴いて欲しく無いものである。
次に、私は昨年より八王子市別所に新築された事務所に勤務することになった。そして偶然にも、ここは何と数少ない東京都のヒメハルゼミ発生地の目の前なのである。事務所からはその発生地が一望でき、季節には歩いて発生地に出向くことができ、そして、その姿と声が堪能できるなんて誰が想像したであろうか。蝉聴きの贅沢まさにここに極まれりと言う感じである。
この場所は十数年前、まだ発生地である蓮生寺が奥深い森の中に佇んでいた頃から知っている場所である。ここに勤務して最初はマンション群が立ち並ぶ、あまりに変貌した光景を目の当たりにして、果たして夏になり、ヒメハルゼミ達が無事でいるか心配であった。しかし、去年の夏立派に棲息しているのが分かり、今安堵の気持ちでいっぱいである。何とかこれから先も持ちこたえてほしいものである。
そして、蓮正寺から少し離れた南大沢都立大学裏の雑木林にも発生している。もちろんここも会社から至近距離であることから、今年の夏は随分と楽しませてもらうことができた。ここは、雑木林の中に散歩道が敷かれており、観察には絶好の場所である。ここに行かれた方は是非一度林の中に佇み、ヒメハルゼミが鳴き始めるのを待っていてもらいたい。何故ならば、まず音頭取りと呼ばれる一匹目が鳴き始めると他のヒメハルゼミの呼応が始まり、その鳴き始めた方角からヒメハルゼミの鳴き声が、津波のように押し寄せ、そして遠ざかって行くのである。その光景は正に圧巻としか、言いようが無く、一度聴いてもらいたいものである。
このように、私とヒメハルゼミは奇縁で結ばれているような気がしてならないのである。去年の夏はこの縁に期待し、多摩・八王子界隈の鬱蒼とした森を従えた神社・仏閣を観察して回ったが、棲息していそうな環境は幾つもあったのだが、発見することはできなかった。しかし、これにめげず新たな棲息地発見を目標に、今後も夏には至る所に足を伸ばそうと考えている所である。
4.
ヒメハルゼミの謎
前々から疑問に感じていたことであるが、何故ヒメハルゼミは神社・仏閣の森に棲息するケースが多いのであろうか。ヒメハルゼミがいる所が神聖な木(シイ・カシ・ホルト等)が多い場所であったため、そこにたまたま、神社・仏閣を建立したからであろうか。または、神社・仏閣をまず建立し、あとからヒメハルゼミが棲み着く結果になったのであろうか。いずれにせよ、関東近辺のヒメハルゼミの分布があまりに居所的且つ点在する傾向にあるため、何かしら人為的な要素(例えば、南方からわざわざ神聖な木々を神社・仏閣のために持ち込み、それに卵や幼虫が付着していた等)があるような気がしてならないのであるが、真相はどうなのであろうか。私にとっては永遠の謎である。
5.
エゾハルゼミとヒグラシ
「声の似ているエゾハルゼミとヒグラシが、一緒に鳴いていたら面白いだろう。しかし、発生時期と棲息地域に違いがあるため、そのような場所は難しいのではないか」との事を何かの本で読んだ覚えがあるが、この条件を満たす場所を偶然発見したことがある。もう十数年前にもなるが、下田でヒメハルゼミの声を聞いた帰路に、伊東西伊東線(59号)の仁科峠を通った所、エゾハルゼミとヒグラシが同時に鳴いていて、そのコーラスを堪能できたことがある。時期は7月後半だったと思うが、おそらくここは貴重な場所であるはずである。セミの会の分布図には、エゾハルゼミの棲息地として仁科峠は記載されていないが、この近くの天城山周辺にはエゾハルゼミの分布が記載されており、おそらくここにも仁科峠同様、一時期エゾハルゼミとヒグラシのコーラスが聴けるのではないかと考えられる。
6.
家の裏のヒグラシ
私の家(目黒区碑文谷4丁目13番地21号)のすぐ裏に500坪程の小さな雑木林(通称角田の森)がある。そして、そこにはまだヒグラシが棲息しており、都内では今や貴重な場所の一つとなっている。不思議と夕方はめったに鳴かず、朝方のみ鳴く傾向を示している。昨年は朝早く起きる機会が無く、鳴き声を確認することはできなかったが、少なくとも一昨年は数頭の鳴き声を確認することができた。現在この場所は、とある不動産屋の管理地になっており、高い塀で囲まれ立入禁止の措置が取られている。今後、この場所がこのままの形で残されていくという保証は無く、非常に気掛かりである。
7.
赤いミンミンゼミ
小学校の時、鎌倉で赤いミンミンゼミ(メス)を捕まえたことがある。実際には赤とゆうより、通常緑色のところが見事に橙色(いわゆるアドニス型と思われる)となっており、捕まえた時、子供心に非常に興奮したのを覚えている。その固体は早速標本にしたが、珍しいためによくこの赤いミンミンゼミを取り出しては、友達に自慢してみせていた。しかしある時、外で友達に見せた後、そのまますぐ遊びに行きたいがために、その赤いミンミンゼミを標本箱に戻さず、郵便受けに入れたままにしてしまったのである。そして、戻って来て見てみると、既にその赤いミンミンゼミの姿はどこかに無くなっており、途中に暮れた思い出がある。おそらく、蟻の餌食にでもなってしまったのだと思うが、惜しいことをしたものである。
8.
バリ島のミドリゼミ
インドネシアのバリ島には全身緑色のセミがいる。11年前バリ島に旅行をした時、決まって夕方6時頃から7時頃まで可愛い声で鳴く虫がいるのに気づいた。そこで、観光客を取り巻く客引きの現地人の1人と共に、捕まえに行った所、緑色で赤い眼をしたハルゼミ程の大きさをしたセミを捕まえることができた。習性や姿形から当時はクロイワゼミと同種では無いかと思い後日調べたところ、大きさが違う等相違点がいくつか有り、クロイワゼミでは無いことがわかったが、捕まえた時点ではひょっとしたらと思ったものである。また、バリ島にはもう一種日中ジリジリとーで鳴くセミらしき何かがいたが、ついに姿形は確認できなかった。
蛇足だが、バリ島では観光客を相手にする客引きが到る所にいるが、私が彼の「女はどうだ。麻薬はどうだ。」と言う誘いを一切無視し、逆に「あの鳴く虫を捕まえてくれ」と頼んだ時、露骨に「なんだコイツは」と言う顔をされたのが忘れられない。そこを粘り、金を払う話で彼をその気にさせたところ、彼は家に戻りセメダインを指に付けて来たのには、思わず笑ってしまった。結局は、私が素手で捕まえたため彼のアイデアは無駄になったが、相当変な日本人だと思われたのは間違い無い。
おわりに
今年も蝉聴きに各地を回ろうと思っていた矢先に、会社からニューヨーク駐在を命ぜられてしまった。その結果、日本の蝉聴きは暫くの間お預けとなってしまうことになったが、しかし、ニューヨークと言えばアメリカ東部である。アメリカ東部と言えば知る人ぞ知る、あの17年ゼミの発生地である。新たな蝉聴きの旅ができるとおもうと、これからますます期待が高まる今日この頃である。